心の中

私の妊娠経験を書いてます。「初めに」をご一読下さい。

違和感(千春⑤)

12週目の検診と16週目の検診の先生(A先生とします)は、この産院で初めて連続した同じ先生でした。
この産院は担当制ではありませんので、産科と婦人科と分かれている中で、更にその科で同じ先生になることは、初めてでした。
私は12週目の検診で、A先生に違和感を覚えていました。このときは全く説明がなかった。ほかにもありますが、要は態度が医者としておかしくないか?(すみません・・・)という心象の問題ですので省きます。

16週目は、ここは頭で、今は逆子だけどこの時期は動き回ってるから大丈夫、これは足の骨ね、と前回と打って変わって口数の多い説明のある内診でした。

20週目の検診後、腎臓の疾患は胎児エコーで見つかりやすいと帰宅してから知りました。
中期胎児ドックの先生のお話で、「これだけ腎臓が腫れてるなら、1ヶ月前の検診で分かる人が見れば気づけたかもしれない」
この言葉で、A先生に不信感を抱くことになりました。20週目の検診の先生は、腎臓を見ました。

A先生は、見たの?12週の態度がチラつきます。
16週で腎臓には一切触れていない。
疾患が見つかりやすい、疾患の頻度が高い臓器なのに、そもそも見てないんじゃないのか?

そもそも産院で指導してないわけないよね、黙って説明なしにエコー写真と案内用紙渡すだけの態度は目を伏せるよ、でもこれは見落とし・・・?

16週で見て分からないなら仕方ないです。
分からないものは分からない。見るのは難しいんだ、エコーだから。
しかしそもそも見てないなら?
1ヶ月ちかく千春はまさか、無駄に苦しんでいるわけじゃないですよね。
もしそうなら、親として怒りが沸きあがります。
確率のせいで私たちの子供が「自然淘汰」になる理由よりも、私はこのことが知りたかった。

風疹(千春④)

母子手帳を貰って初めての検診(12週目)で行われた血液検査の結果で激しく動揺して、また皆さんの体験談を励みにしたのでした。
そして結果として、先に書きますが検査結果はオールクリアであったことを申し上げておきます・・・。

この日の検診・検査は初めて主人に付き添ってもらいました。(道を覚えて欲しいから)
同時に栄養士さんの栄養指導がありました。夫婦で参加できました。
栄養士さんは私の前回のことをご存知で、その中の会話で私はこんなことを言いました。
「やっと、産科にこれました。」
心底そう思いました。
受付のあと婦人科に行く時は必ず産科のロビーを通らざるをえない建物です。
羨ましかった。産科に憧れを抱いてました。
何事もなく産科に来て当たり前の人は、当たり前なんだよなあ、って思いながら婦人科に通っていた。

検診が終わった4日後、産院から電話が来ました。
全然重みのない、普通の声色で
「風疹の値が高いので、再検査になります。来週、再検査の料金¥〇〇をお持ちになって来てください。前回の領収書も持ってきてください」
これだけです。
「あー、たぶん領収書・・・ないかもしれないです」
電話保留。
「ないならないで、大丈夫です」「分かりましたー」と言って電話を切りました。

・・・。

風疹、聞いたことはあるけど無知でした。
急に怖くなってスマホで調べたら、なんで私は知らなかったの?と思うほどの検索結果の量と内容でした。
ふと、市役所から貰った書類の一つを思い出して探したら、「先天性風疹症候群」についての書類が。
その内容は、妊娠初期で無知な私が後悔する内容。
しかも「妊娠中は予防接種が受けられません」。

風疹の値が高いということは
・抗体があるor最近風疹にかかった

そして私が不安になった理由です。
・昔風疹にかかった場合があってもそのときの抗体が大人になった今、20数年後まであるか分からない
・妊娠5週くらいに数日微熱があった

急いで私と母との母子手帳を探しましたが、見つかりませんでした。
なんか、子供の頃になにかなった話は覚えている。
でも、それが風疹でも、抗体が残っているかは分からない。
体験談の中には風疹の抗体が8、という低い方もいました。その方が風疹じゃないなら、大丈夫なの?そもそも「高い」っていくつなの?
あんな調子の電話なら、こんなに慌てることはないほどの「高い」なの?
結局、恥ずかしい話なんですが、いい歳したアラサーは産院に電話は出来ず、泣きながら風疹について父に聞きました。
「確かにうつしたよ、風疹」
とりあえずほっとして泣きやみましたが、それは私が2歳くらいの頃の話でした。
抗体が残ってないかもしれないから心配なんだと言ったら、色んな話をしてくれて、勇気づけられました。
本当にお恥ずかしいし、千春からしたら「しっかりしてくれ」という話ですね。千春のお母さんなのに。

父さん、私に風疹をうつしてくれてありがとう。
そのときの抗体があるはずだと信じました。

再検査の結果は、「256」でした。
この報告をした先生も、再検査の連絡をしたあの受付の人と同様、淡々とフツーに話すんですよね。
何だったんだんだろう。
これ256ってどんくらい高いの?8の倍数なのはネットのお陰で知りました。
256について、説明がないけど聞く気が失せました。今、問題がないのなら、いいんです・・・

風疹の検査は、妊娠前にするほうが大事なのに知らないって怖いです。
水疱瘡と風疹。
ガーデニングが好きで最近猫を飼い始めた妊娠希望の方。
トキソプラズマも加えてお調べになった方が良いと思います。
年代によって、学校での予防接種があったかなかったも調べると分かりますよ。

妊娠12週までの話(千春③)

安定期までは同居している父と夫にだけ、妊娠したことを報告しました。
年末年始。お義母さんに言いたいのを我慢して一緒に食事しました。


妊娠6週で前回同様に心拍確認ができましたが、その次の検診で私は千秋の流産を告げられた。そのことを思い出すと、とても怖かった。

年が明けて8週の検診は期待と不安が入り混じってました。そして検診順番待ちの話です。
これ、普通ありえないんですが、診察室のドアが締め切ってなかったみたいで、「流産」の言葉が私の耳に入ってきました。
妊婦さんの声は聞こえてきません。
先生はそのあと「手術」と言いました。
100人中15人・・・この数字が頭をよぎって、なんとも言えない気持ちの中、私の番はしばらくしてからきました。

8週目の検診は無事に終わりました。ああ、前回のこの時点の週数、私は愕然としてモニターを見つめていたんだな。
今写るモニターには赤ちゃんの栄養の袋も見え、肝心の赤ちゃんは何だか見えにくいから、千秋のほうが写りがいいなー!と思っている中
ついに欲しかった言葉を産院から頂いた。
「妊娠おめでとうございます」。
初診に言われないから、ずっと言わない方針だと思っていました。
エコー写真にうつる心拍の線。

そして出産予定日の決定、産院からのベビーグッズの案内とかのパンフやオムツのサンプルなどのお土産。
母子手帳をもらってください、の一言。嬉しかったな。

会計待ちのとき、市役所に何を持っていけばいいか調べて帰宅し、持ち物を準備しました。
12時半を回っているけど、今すぐ母子手帳が欲しくて空腹のなか、歩いて15分くらいの市役所に行きました。
ウキウキでした。
市役所でもたくさんの母子に関する書類をもらい、書類なのに嬉しかった。
帰宅したら、父が車に乗ってまさに出勤するところでした。
駆け寄ったら気づいてくれて、母子手帳もらったよーー!!って言いました。
良かったな、って笑ってくれました。
3月の25日、昨日あんなことを父さんに報告してしまって、今日は朝からこうしてブログの記事を書くと、ときどき目が潤む程度で流れなかった涙が今、出ました。
ほぼ言葉を発さずに書いていた私が泣き出したので、夫はびっくりしました。
母子手帳をもらったことを父に報告したときのことを話すと、「また(母子手帳)報告しようね。また喜んでくれるよ」って、静かに優しく言ってくれました。
現実はいまここにあって、あの温かいほわほわしたあの頃には戻れない。



加筆修正をしてる4月9日。
やっぱりこの時のことを思い出すと、泣いちゃいますね。母子手帳もらった日の次に赤ちゃんのことで市役所に行ったのは、出生届じゃなくて死産届の提出でした。ため息が出ます。

主人は仕事が終わらないと連絡がつかないのに、検診が終わるとその日はすぐにLINEしていましたね。
この日は母子手帳もらったよー って。

2016年12月+名前

手術後の生理は来ました。
私達は子供が欲しかった。
流産後は子供ができやすいと聞きました。また千秋が来ることを願いました。

いわゆる胎児ネームは「ぽんぽんちゃん」でした。
9月に私から出ていった子を千秋。
その半年後の桜が開花するこの季節に、また出ていってしまう子を千春と名付けたのは昨晩のことです。

ごちゃごちゃグチャグチャの思いの中、クッションでもある羊水がないぽんぽんちゃん(千春)を、お腹の上から優しくさすってるときでした。
どういった思考を辿ったのか、泣き疲れて朝まで寝てしまったので思い出せないのですが・・・。

子供の名前は決めていました。
季節とか含んだ意味の名前です。
千〇(伏せます)というのですが、この夜、もし千秋≠千春なら、同じ名前って赤ちゃんとしたら嫌かなぁ・・・とか思ったのかな。
性別がどちらでも、千秋千春はいいと思った。
そして、千秋 千春 と思った瞬間、ストーンと私の中で腑に落ちました。隣で寝ていた主人を起こしたいくらい、これだー!!千秋に千春なんだよ!
って。
意味分からないですね。

お腹にいるときは、みんなぽんぽんちゃん。
ぽんぽんちゃんがもんもんちゃんで♪
ぽんぽんちゃんがもんもんちゃん♪
そんなわけわからない歌を今日まで歌っていました。
千秋=千春なら?どっちの名前もあなたのものだからねー、と思いながら寝たのだと思います。


12月、単発の派遣の仕事なら妊娠しても辞めやすいかな、と登録しました。
そして出勤する前日。
気持ち悪い。これは、知っている気持ち悪さだ・・・。
ちょっと予定日より早いけど、妊娠検査薬を使いました。
陽性と、バッチリ線がでました。
後の千春がやってきたのです。

手術後(千秋⑥)


だっこしたかったな


手術後の身体の回復は良好でした。
約ひと月後の生理がくることを祈りました。
仕事を辞めたので主人の扶養に入りましたが、年内は休んでていいよと主人が言ってくれました。
父も、ゆっくりしなと言ってくれました。
我が家は混まない時期に車で2つ隣の県のお墓参りに行きます。
いつものお墓参りと違うのは、千秋のことをご先祖様にお願いしました。

水子供養のことは悩みましたが、行いませんでした。
また千秋が来てくれる。そうでなくても、千秋が私達や次の子供を妬むとか、邪魔するとか、そんなことするわけないと夫婦で話し合い、この結論に達しました。
千春を妊娠した今でも、千明のエコー写真をよく見ます。
その写真でしか、いいこいいこって撫でることができません。
どんなに少しの間でも、私達の家族です。
水子供養をするか否かを悩む中、供養の方法は人それぞれでいいと思いました。

このあと赤ちゃんを産んでも、それが千秋でもそうでなくても、千秋への思いは忘れるはずがない。
私はいつか印刷が薄くなって消えてしまうエコー写真であっても、ずっといいこいいこ、ってこの先も撫でるんです。

掻把手術当時(千秋⑤)

ありのままです。掻把手術の話です。

朝、通常の診察より1時間前に時間指定されて産院に到着しました。
まだ夏が残った9月中旬の秋晴れでした。
そんなお日柄のなか、数時間後に千秋とは本当にバイバイです。
優しい看護師の方が受付から病室まで案内してくれました。緊張感はありましたが、軽い談笑もしました。

痛いと評判のラミナリア。
痛かったです。この痛みが延々と続くはずがないのは分かっていても、2度とやりたくない。
声を上げずにはいられません、先生も声をかけてくれながら処置してくれてました。
しかし何はともあれ痛い。
確かにラミナリアのときも麻酔して欲しいかもしれません。(そんな感想を見たことがありました)

何より本当に、なんで子供を亡くしておまけにこんな痛い目にあわなきゃいけないんだ?という心境でした。

病室で子宮口が開くまで待ちました。
考えても仕方ないし、考えたくもない。
本を少し読んで、やめて、目をつぶってまた本を読んで。
それを繰り返し、しばらく寝ました。

処置室で、今回手術して頂くのが、初めてお会いした医院長先生でした。優しい言葉をかけていただきました。また妊娠できるように、お腹の中を綺麗にしますからね、と。
そう、また千秋が来れるようにするんだ。

数人の看護師さんにもお世話になりました。
皆さん優しくて、私が「全身麻酔効きにくい人もいるみたいで、途中で起きたら心配です」って笑いながら聞いてみたら、「大丈夫!」と言われました。
その言葉を信じました。

腕が動かないよう筋肉に注射しました。喉が渇いたようになると言われたら、すぐに本当にそうなって不思議だなあ、と思っていたら次は全身麻酔でした。
数を数えてください、って言われたのかな?
いち、に
の、次の瞬間
何かで膣をいじられているような感覚が来て、痛くはなかったけどひたすらびっくりして、看護師さんの大丈夫!は、何だったんだ?!と瞬時に思いながら
「先生、起きてます!」だか「麻酔きいてない!」だか意識あります的なことを大声だしたところで、医院長先生が
「終わりましたよ~」
?!?!
すぐに、赤ちゃんは?赤ちゃんは、どうするんですか!
って確かに聞きました。
これも事前に知識を拵えていたので、検体として胞状奇胎ではないか調べる事は知ってたのに、言ってました。
で、調べるんだよーと説明してもらっている間に車椅子にのせられ、私は全身麻酔の影響でいま話すかとじゃないのに、その日の夜に見た千秋の夢の話を、フニャフニャ言いながら病室に戻りました。
その夢は、寝室で寝ている私の横に、女の子が何人かいて、寝室のドアの近くに何人かの年代がバラバラの男の子が立っていた夢です。

時計を見たら、手術時間は20分でした。
病室のベッドに横にさせてもらって、2時間弱かなあ?寝ていました。
そのあと手術後の内診をするのに婦人科へ行きました。
そこには、私のように妊娠初期の患者さんがいます。特に思うことはなかった。

お会計は産科婦人科共通なので、元気な赤ちゃんやその兄弟姉妹がいます。
元気で何より、です。


連絡するより前に待ってくれていた父と帰宅しました。
さっきまでお腹の中にいた、性別も分からないほど小さすぎて、エコー写真でしか見たことない、かわいい千秋の身体は、検体として提出されたらちゃんと火葬とかしてくれるのかなあ
と思っていました。
今でもその疑問は残ります。

手術当日の朝までのこと(千秋④)

金曜日、水曜日とは違う先生が見てくれました。
はっきりいって、流れ作業。
言葉良くいえば、スピーディ?
はい、1週間前に死んでるのはカルテにある、前回のエコーで分かってますから!と言わんばかりです。
このときの検査は千秋・千春で複数回あった経膣検査の中で、明らかにおかしくて不愉快でした。
胎芽の大きさの測定は抜き、心拍見るだけだから早かったにしても・・・。
前回だって見えないから、いつもより長く見られたんです。私の気持ちに寄り添え!じゃなく、ただ不愉快で、悲しかった。

手術は産院の都合で週明け火曜日、日帰りの掻把手術となりました。
火曜日までがまた、長い。つらい。
結局帰宅してからだんだん火曜日になるにつれて痛みが出始めました。
出血はないものの、この痛みは母体が赤ちゃんを「異物」と感知して私のお腹から「排除」しようとしているそうです。
・・・最低、なんなのこの心に合わない機能は?
私の赤ちゃんなのに、なんてことしようとしているんだろう。でも、掻把の仕方もなかなか、なんだろう、悲しいです。

義母が、手術に付き添うと申し出てくれました。
私はこの心境では2人きりで何か話せるとは思えないし、何より朝から夕方まで長い時間、お互いが気を使うことになりそうだと思い丁寧にお断りしました。
義母は、ひたすら私を心配してくれました。そのお気持ちだけで、本当に充分でした。
この時の私は、お義母さんをお呼びするときは、赤ちゃんを出産するときなんだ!と思っていました。


帰りは父が休みを調整してくれて、迎えに来てくれることになりました。
主人は、仕事に行く前に励ましてくれました。
行きは初めて産院まで路線バスに乗りました。
誰も私のお腹の中に、死んでしまった赤ちゃんがいるなんて思ってもいないな、とかそんな変なこと考えていました。